賃金をめぐる不都合な真実

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 日銀の量的緩和策導入から3カ月が経過し、長く続いてきたデフレ傾向に転換の兆しが見え始めた。基本的には円安を背景にした輸入物価の上昇が全体を引っ張る構図だが、物価上昇の可能性が見えてきた事実は大きい。

 市中では早くもインフレによって生活が苦しくなることを懸念する声が出始めている。政府はこうした声にかなり敏感になっており、今秋をメドに最低賃金を2%上昇させる意向を固めた。ただ、経営側が最低賃金の上昇に強く反対していることや、政府が賃上げを企業に強要するとインフレを一気に加速させるとの懸念があり、スムーズに進むのかは不透明だ。

 いずれにせよ輸入物価の上昇は確実に製品の最終価格を押し上げつつあり、このまま円安が続けばいずれ2%の物価上昇を実現できる可能性が高まってきている。だがここで問題となるのは、物価上昇がどのようにして実体経済の成長に結びつくのかだ。物価を政策目標として掲げたまではよいが、物価上昇でどのような経済効果を期待するのか、政府は明確に説明できていない。

アベノミクスの本質は実質賃金の低下?
 アベノミクスの核心ともいえるこのメカニズムをめぐっては、いくつかの考え方が存在している。一般的には名目上の物価上昇があれば、株価や不動産価格が上昇し資産効果によって消費が増えると説明されることが多い。だがそれだけで日本経済を再び成長軌道に戻すことが困難であることは多くの人が認識している。

 物価上昇が成長をもたらす現実的メカニズムとしては、以下のふたつが考えられる。ひとつは物価上昇期待(インフレ期待)が発生することで実質金利が低下し、融資が増大、設備投資が回復するというもの。もうひとつは、インフレ期待によって実質賃金が低下し企業の競争力が回復するというものである。実質賃金の低下は失業率を低下させるという効果もあるとされている(フィリップ曲線)。

 特に後者は多くの国民にとって非常に重要な問題である。政府がもしこれを意図しているのであれば、インフレに対応して給料が上がらないことはあえて黙認されることになる。インフレ傾向が続く中、実質賃金を抑制することは、持続的な成長を可能にする有力な処方箋であるともいわれるが、これについて我々はどう解釈すべきなのだろうか?

80年代の米国は実質賃金の抑制が高成長をもたらした
 実質賃金の低下が持続的な成長をもたらした例としては、80年代以降の米国がよく引き合いに出される。1970年代の米国は物価上昇と景気低迷が併存するスタグフレーションに苦しんでいた。労働組合の力が強く賃上げが何度も行われたが、物価もその分上昇し生活は楽にならなかったといわれる。
 
 1981年に就任したレーガン大統領は、大胆な規制緩和と減税を軸した経済政策(レーガノミクス)を提唱、米国経済を見事に復活させた。多少の踊り場はあったものの、リーマンショックの発生まで長期にわたって好調な経済が続いたのである。米国の新しい黄金期ともいえるこの期間は、意外にも実質賃金が一貫して抑制されている。その代わり、失業率の低下も進み、ほぼ完全雇用が実現された(図1)。


実質賃金が上がった方が経済成長する?
 だが米国のこうした経済環境は、必ずしも普遍的なものとはいえない面がある。実質賃金が上昇した方が、高い経済成長を実現できたケースも多数存在する。図2は主要国(+スペイン)における実質GDP、実質賃金、失業率の関係をグラフにしたものである。期間は2000年から2012年までの13年間である。

 横軸が実質GDP成長率の平均値、縦軸が実質賃金の平均上昇率、円の大きさが失業率を示している。この図を見るとおおまかではあるが、経済成長と実質賃金の上昇率には相関がありそうである。つまり実質賃金が上がった方が経済成長にはプラスということである。

 ただ個別に見ると状況はバラバラだ。英国は高い成長と実質賃金の上昇を実現できているが、現在はインフレ傾向が強く国民の不満は高まっている。フランスは物価上昇と経済の停滞に加えて高い失業率が大きな社会問題となっている。米国は先ほど述べたように、低賃金だが高成長と低失業率となっている。最近は経済が絶好調で完全雇用といわれるドイツも、長期で見るとそれほどの高成長と低失業率を実現できているわけではないことが分かる。


賃金が安い方がインフレに不満を持たない不思議
 少し意外なのが、実質賃金の上昇率が高いほどインフレの弊害を国民が意識しやすいという点である。実質賃金の上昇率が高いフランスや英国はインフレに対する国民の不満が大きく、実質賃金が低い米国やドイツは国民がインフレに対してあまり不満を持っていない。本来であれば、実質賃金が上昇すれば、数値上は生活が楽になっているはずだが、国民にはそう映らないようである。

 ブラジルはインフレの進行に合わせて最低賃金を引き上げる政策を積極的に行ってきた。実質賃金の上昇とGDPの成長は比例しブラジル国民は一時高成長を謳歌した。だが国民のインフレに対する不満は徐々に高まり、政府は価格統制で乗り切ろうとしたものの、最終的には大規模なデモにまで発展した。ブラジルは新興国なので単純に比較はできないが、実質賃金の引き上げが逆にインフレに対する不満を誘発した例として注目に値する(図3)。

 総合すると、実質賃金を低く抑えることが必ずしも経済成長と結びつくわけではないが、実質賃金の伸びが大きいとインフレの弊害が国民に意識されやすいということになるだろうか。


安倍政権は実質賃金についてどう考えているのか?
 日本は実質賃金がマイナスという数少ない国であり、成長率もマイナスである。このグラフを見ると、日本はデフレでかつ実質賃金も下がるという10年であったことがわかる。大企業の社員や公務員はそれほど賃金が下がっていない事を考えると、それ以外の労働者の賃金下落がすさまじかったことを暗示している。

 日本でこのような賃金の引き下げが可能だったのは、限りなく違法に近い雇用形態が横行していたからと考えられる。その意味で日本は最低賃金法は存在しているものの、実質的にはあまり機能していないといってよい。

 安倍政権が最低賃金の見直しに言及している理由は今のところ不明である。本当に実質賃金の引き上げを狙っているのか、それとも実質賃金は上昇しないと知りつつ、政治的ポーズを取っているだけなのか、あるいはそのどちらでもなく場当たり的な対応に終始しているのか、その答えはいずれ明らかになる。

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