国家はインフレをどのように収束させてきたのか?

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 安倍政権が日銀に対して2%の物価目標の導入と量的緩和の拡大を強く要求し、日銀がこれを受け入れたことから、市場では早くもインフレを警戒する声が出始めている。足元の経済状況では2%の物価目標はおろか、1%の物価上昇ですら困難が予想される。インフレの心配など杞憂かもしれないが、一方で、ひとたびインフレになってしまうと、それを押しとどめることが極めて難しいというのもまた事実である。
 日本は長期間にわたってデフレが続いてきたので、インフレに対する免疫がほとんどない。インフレを収束させる際に受け入れなければならない痛みについてイメージできる人は思いのほか少ないのだ。インフレ期待が高まっている今、過去の事例を振り返り、国家がインフレを収束させるために何をしてきたのかについて知っておくのも悪くないだろう。

70年代の米国を苦しめたスタグフレーション
 同じインフレでも平時に発生するインフレと有事に発生するインフレでは状況がまるで異なる。ここでは平時のインフレとして70年代の米国で発生したスタグフレーションの事例を、有事のインフレとして太平洋戦争前後の日本に発生したインフレを取り上げてみる。

 70年代の米国は物価の上昇と経済の低成長が同時に発生する、いわゆるスタグフレーションに悩まされた。これは米国の競争力に限界が見え始めたことや、ベトナム戦争の長期化によって財政負担が著しく増大したことが直接の原因といわれている。現在の日本にも通じる成熟国家型のインフレである。


 図1は1970年代から80年代にかけての米国の物価、株価、金利の動向を示したチャートである。1970年からの10年で物価は約2倍に上昇したが、この間の実質GDPの成長率は平均3.1%だった。今の感覚からするとそれほど悪い数字ではないが、それまでの米国が平均4%台の成長を続けていたことを考えると大きな落ち込みであった。
 米国企業の競争力は低下し、それにともなって企業収益も悪化した。株式市場は低迷し10年以上にもわたってダウ平均株価は横ばいが続いた。インフレ率を考慮すると実質的に半分に下落してしまったことになる。
 
 政治的にも暗い時代であった。ケネディ大統領が開始したベトナム戦争は泥沼化し、ニクソン大統領は就任直後からその後始末に追われることになった。しかも1974年にはウォータゲート事件で辞任するという前代未聞の事態となってしまった。1977年に就任したカーター大統領には政治刷新と景気回復が期待されたが、ほとんど成果を残せないまま4年の任期を終えてしまったのである。

ボルカーFRB議長の強硬策とレーガン大統領の登場
 70年代の経済政策は常にインフレに振り回され続けた。景気の先行きを懸念するニクソン大統領の意向を強く受けたバーンズFRB長官は、インフレ懸念があるにもかかわらず70年に利下げを断行しインフレを一気に加速させてしまった。その後利上げに転じるものの、経済が不調であったことから、議会からは常に利下げの圧力がかけられた。
 FRBはしばらくの間、思い切った手を打つことができず、本格的なインフレ抑制策に乗り出すことができたのは、ボルカー議長が就任した79年以降のことである(後にボルカー議長はインフレファイターと呼ばれた。写真は現在のボルカー氏)。

 ボルカー議長は、利上げを行えば議会から激しい突き上げを受けることが分かっていたので、政策金利ではなくマネーサプライを政策目標に切り替えると宣言した。だがこれは一種の情報戦で、ウラでは矢継ぎ早に利上げを実施し、強烈な金融引き締めに転じたのである。ボルカー議長は当初10%前後であったFF金利(米国の基準となる政策金利)を一気に20%まで引き上げたため、金融市場は大混乱となった。信用収縮が起こり、実質GDPもマイナス成長に転じたが、ボルカーはひるまず引き締めを続行した。長期金利は一時16%近くまで上昇している(図1)。

 81年には強いアメリカを標榜するレーガン大統領が圧倒的な支持で大統領に就任した。レーガン大統領は、歳出削減、大型減税、規制緩和、マネーサプライ抑制(ドル高政策)を主軸とする経済政策(レーガノミックス)を発表、市場には大きな期待感が生まれた。82年にはとうとうインフレが沈静化しそれと同時に株価も上昇に転じることになった。

 70年代に米国を襲ったインフレは、ボルカー議長による徹底的な金融引き締めと、レーガン大統領の大胆な経済政策によってようやくその悪循環を断ち切ることができたのである。

太平洋戦争前後で物価は180倍になった
 一方、太平洋戦争前後の日本を襲ったインフレはさらに解決が困難なものであった。日本は日中戦争と太平洋戦争を遂行するために、総額で開戦当初の国家予算(一般会計)の100倍という途方もない資金をつぎ込んでいた。これらの費用はすべて国債発行(日銀による直接引き受け)で賄われたため、戦時中から悪質な財政インフレが進行した。また度重なる空襲で日本の生産設備は50%以上が稼動不能となり、極端な供給不足の状態が続いていた。このため終戦後にはインフレが一気に爆発することになり、日本は猛烈な物価高に襲われた。

 図2は1940年から1955年までの物価指数と公定歩合の推移を示したものである。1941年の太平洋戦争開戦時から終戦後インフレが収束する1952年までの間に小売物価指数は180倍近くにもなった。第一次大戦後の5年間に物価が1兆倍に上昇したドイツのハイパーインフレに比べればはるかにマシだが、それでも戦争前後の猛烈なインフレは日本経済と日本人の生活に壊滅的な大打撃を与えた。


 日本では戦争が近づくにつれて民主主義が弾圧され、軍国主義的な体制に変わっていった。これに伴って国家による経済統制も厳しくなり、1938年に施行された国家総動員法以降は完全な統制経済に移行した。生活必需品をはじめ多くの商品が価格統制の対象となり、見かけ上インフレは抑制されることになった。
 だがどんなに価格統制を強化しても、貨幣の乱発と物資不足から来るインフレは進行しており、公定価格とは別の闇価格が形成されるようになってきた。

 図2の濃い青のグラフは闇市場価格における物価推移を示している。戦後、闇市場は半ば公認され、市場データも記録されるようになったが、戦前については闇市場は名実共に禁止されており、公式のデータは存在していない。グラフの破線は戦後の闇市場価格をもとにした戦前の推定物価指数である。これによると、終戦が近づく頃には、すでに相当のインフレが進んでいたことが推察される。

 もっとも戦時中はインフレといっても、物資が極端に不足しており、どんなに高い価格を提示しても購入すること自体が難しかったと思われる。日々の食料確保にも事欠く状態であり、国民の生活感覚としてあまりインフレは意識されなかったかもしれない。多くの人がインフレを意識するのは終戦後、自由な経済取引が解禁されてからである。 

預金封鎖と財産課税という荒療治
 それでは180倍近い物価上昇となった準ハイパーインフレを日本はどのようにして収束させたのだろうか?当時は公定歩合も統制対象となっており、戦時中にはほとんど改定がなかった。また戦後も1952年までの間に4回ほど利上げを行っただけである。

 現実のインフレ対策はもっと暴力的な方法で行われた。預金封鎖と財産課税による金融資産の強制徴収である。預金封鎖とは、銀行口座を強制的に凍結した上で新しい紙幣(新円)を発行し、新円と交換しない限りは預金を引き出せないようにした措置のことを指す(緊急金融措置令および日本銀行券預入令)。政府は預金封鎖と同時に財産税法を公布し、封鎖された預金に対して最高税率90%にも達する税金を課した。
 マクロ経済的には、過剰な紙幣発行で膨らんだ国家のバランスシートを、国民からの強制徴収によって現実の価値水準まで削減したのである。この措置によって預金のほとんどは国家によって吸い上げられ、多額の預金を持つ資産家はほぼ全財産を失った。

ドッジ・ラインによってインフレはようやく収束したが
 また金融システムの面では、産業界への資金援助を見直し、企業の自助努力を促す政策に転換した。これはGHQの経済顧問として来日したジョセフ・ドッジ氏による勧告ではじまったことからドッジ・ラインと呼ばれている(写真は来日したドッジ氏。左は池田勇人元首相-当時は大蔵大臣)。

 ドッジ・ラインでは、均衡財政、政府系金融機関による融資の見直し、債務の償還、公務員のリストラなどが実施された。特に大きな影響を及ぼしたのが、政府系金融機関による融資の見直しである。

 終戦後、復興支援を目的として復興金融金庫(現在の政策投資銀行)が設立され、ここから産業界に対して巨額の融資が行われていた。戦争によってあらゆる設備が破壊されており、大量の資金が必要であったことを受けた措置だが、この融資がインフレをさらに加速させていた。

 ドッジ・ラインによって新規の融資や追加融資が中止となったことで、市場は一気に冷え込み、多くの企業が倒産の危機に直面した。この時期、トヨタも倒産寸前となりギリギリで倒産を回避している。

 国民からの暴力的な資産徴収と金融機関を介した強烈な金融引き締めでインフレは何とか収束した。日本経済はこの反動で大不況となるのだが、戦後日本はツイていた。朝鮮戦争の勃発によって一気に経済は回復、高度成長に転換することが可能となったのである(朝鮮戦争特需)。これがなければ、しばらの間、日本はデフレに苦しむことになっていたはずである。

 大きな痛みを伴う過酷なインフレ抑制策の後には、なぜか米国ではレーガノミックスが、そして日本では朝鮮特需が発生し、その後の成長につながった。だがこれらの出来事は必然なのか、それともただの偶然なのかは誰にも分からない。

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 ・終戦直後ハイパーインフレ期における株価と不動産価格(日本)
 ・ドイツ、ハイパーインフレ下の株式市場
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